2025年1月21日(火)〜1月26日(日)に行うプレ・プレイ・プレイスvol.1「ニューニチブキカク」の稽古場レポートを演出家の石田聖也さんにしていただきます。
石田聖也さんのnoteと、劇団GIGAのブログ内で更新されていきます。
石田聖也note https://note.com/seiyaisida
語り託す 二〇二五年一月一三日
前の予定が早めに終わりそうだったので、お昼前に山田さんにラインを入れておく。
夜は稽古だ。
思えば自分の団体でも、他の演出現場でも、近頃は夜稽古をしなくなってきているなぁとしみじみ思う。自分が朝型であることを発見してからというもの、夜に極力予定を入れないようにしていること、アトリエを持ったことで作品の創り方が変わったこと、その他、偶然も含めて理由は色々ある。だから、こうして久しぶりに夜予定があると、なんだか一日が分割されて、二度体験しているようで不思議に感じる。
連絡したのは、今回の企画の活動批評を書いてみないかと声をかけてもらい、その打ち合わせを稽古の前にできたらしようということだったからだ。結局時間が合わず、夜に直接稽古場に行くこととなった。
昨年から始まった〈ニューニチブ〉というプロジェクトには、普段活動しているグループやジャンル、国境を越え、演出家、俳優、ダンサー、作家、音楽家、舞踊家、舞踏家など様々なアーティストが集まっている。
今回のプレ・プレイ・プレイスvol.1というのは、その試演会兼WSだ。
演出とダンサー向け演劇WSの進行役は山田恵理香さん。
一人芝居に出演するのは俳優で演出家の五味伸之さん。
日本舞踊WSの進行役は同じく俳優の宗真樹子さん。
かごめを舞うのは舞踊家で俳優の加藤久美子さん。
ソロダンスのワークインプログレスに取り組むのはダンサーの真吉さん。
そして、制作の髙橋知美さん。
これが「プレプレイプレイスvol.1」の基本メンバーだ。
小さく始まったこの企画が、大きく育っていくのを、僕も見つめながら、その記憶を文字で語り、文字に託していくことになるのだろう。
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この日の夜、集まったのは市内の公民館の一室だ。先週の雪から市内は一段と冷え込み、僕のまわりの人間はインフルエンザでバッタバッタと倒れていっていたこともあり、公共交通機関での移動は避け、車での移動を選ぶ。
そもそも、演劇はその日その場所において、新たな時間と空間を作り出すことを宿命づけられている芸術だと、少なくとも僕は考える。たった数回の本番のために数ヶ月稽古を積んできているのだ。当日の急な病欠などは一大事である。俳優には簡単に替えがきかない。これまではこのインフルエンザというのは舞台人にとって大きな敵ではあったが、今やコロナというニューカマーも存在する。一度は封印されたマスク文化が僕のもとに舞い戻ってくるのも致し方ない。とはいえこの呼吸を浅くさせられる独特の息苦しさと、内側に僕の思考や精神を引きこもらせる独特の感覚は相変わらず好きにはなれない。
稽古場にはすでに五味さんが到着していて、ウォーミングアップを始めていた。手短に新年の挨拶。年末の僕の体調不良と二週間引きこもっていたことについて話す。奥のベンチに腰をかけて、批評について考えるために鞄に詰め込んでいた本を開く。考えるために本を読み、考えるために本を書く。これは僕の新しい習慣だ。続いて到着した加藤さんとも簡単に新年の挨拶。
俳優の二人は誰に言われるでもなく、各々が体のことを始めている。その様子を横目でチラチラと眺めながら、こうやって俳優たちは日々、自分の身体を使い込んでいくのだなと改め感心する。そうして、しばらくぼんやりと物思いに耽っていたら、入り口のドアが開き、少し高めのトーンの声が稽古場に響いた。不思議なもので、ドアの開く音と流れ込んでくる空気の質で、頭を上げなくても誰がきたのかなんとなくわかる。
演出の山田さんはみんなに新年の挨拶をしてまわり、せっせと自分の作業机を用意し始めていた。
今回のニューニチブは山田さんが中心となって動いている企画だということもあるのだけれど、山田さんのいる空間にはいつも、山田さんの世界観が広がっていると感じる。それは、彼女の元で演出を学び始めた十年前から変わらない。年末は両親がインフルエンザに罹って実家に帰れなかったことについて話すと、随分珍しがられる。山田さんも僕も、年末年始は必ず実家で過ごしたい人間であった。
そうこうしているうちに、俳優は二人組で野口体操(寝ニョロ)を始める。流す音楽もいつも一緒だ。近頃これも習慣や儀式のようなものだと感じる。ひとくちに演劇をやっているといっても、価値観も方法論も文法もキャリアも違う人間たちが集まって集団となり、創作をする以上、肉体にも文脈は必要であり、反復というのは重要な要素なのだ。自分も結局は演劇人だなと思うのは、こうして俳優の肉体をみることで物を考える習性が自分の中にあると感じるからだ。
再び稽古場のドアが開くとダンサーの真吉さんが到着する。真吉さんと書いてはみたものの、彼女を真吉さんと呼ぶ人間はいない。少なくとも僕はそんな人に出会ったことがまだない。年齢やキャリア関係なく。だから、この文章の上でもこれからは真吉と書くことにする。真吉は終始寒い寒いと繰り返していて、外からきたら当然なのだけれど、エアコンをつけていても身体の芯は暖まらない、今日はそんな日だ。現に室内にいても、僕はアウターを脱ぐことはほとんどなかった。
今日のメンバーが揃って、来週の試演会兼WSのこと、現状の共有。それぞれのコメント。僕は昨年の記憶が上手く思い出せないので、自分のメモなどに目を通して、当時の自分がどんなことを考えていたかをチェックしてみる。去年の活動で書いた文章や記号などから、小さく始まって小さく積み重なっているモノの存在を感じる。
そうこうしているうちに、今回のそれぞれの関心どころ、キーワードが場に出始める。民話の中の奇跡とファンタジー、語りとイメージと風景、物語とダンス、時間の違い、記号と舞踊譜などなど。結局、真吉のダンスの題材はまだ決まらないまま、この日は五味さんの一人芝居の創作の起点となりそうな、語りのパフォーマンスをみんなで見てみることとなった。
民話を語る一人の男。体の芯から冷える、積雪の中、一匹の鶴の姿。この寒さは家の中でも感じる。イメージと視線、説明ではなく感覚を伝達する饒舌な肉体。自分は俳優ではないから、俳優の目にどんな風景が映っているのかはわからない。けれど、目に映らない風景というものが存在する。そんなパフォーマンスだった。
演劇に限らず、芸術全般にもしかしたら言えることかもしれないけれど、最初にわかりやすく目に飛び込んでくるモノに本質はなく、大事なことはいつも、この物的世界の外側に存在している。目にはみえない風景、空気の振動では感じ取れない音や感触。それは肉体の芸術も、文学も変わらないのかもしれない。こうして書き連ねる文字、言葉の意味の奥に、自分もいつか何かを描けるようになるのだろうか。
稽古場の外へ出ると、先ほどより寒さを感じなかった。なんなら先ほど、室内でイメージの中の降り積もる雪の中にいた時の、体の芯から冷える感覚の余韻の方がまだ残っていた。演劇が時間と空間を創りだすのならば、それはもはやフィクションではなく、現実であるように思う。
そして、帰り際にふと空を見上げると、マンションの隙間、その遠くの澄んだ空から、
月が存在感のある濃い光をこちらに放っていた。
石田聖也